K2へ登る志の如く

しがないもの書きの、サイト更新の詳細情報を兼ねた日記

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世間から隔てられた世界

世の中は、欲望に満ちている。
それが、単なる(生きるためだけの)食欲ならばまだいい。
性が悪い欲のほうが多い。

1.性欲

性が悪いといってしまえば終わりだろうか。
生物として生まれもった欲求である。
ただ、その方向性には問題があるかもしれない。
人間とはいえ、所詮は不完全な理性しか持ちえていないせいだろう。
動物の中には、性欲を丸出しにする存在もある。
では、何故人間がそうでないかといえば、人間が他の多くの動物と異なる社会的存在であるからだ。
つまり、体裁や見栄、見た目や客観性、世間体といったものを気にする存在であるということである。
この感覚が性欲に負けた場合に、恥を忘れる。
この恥というものこそ、社会的存在である証である。
さすがに、恥を知らない人間は滅多にいないであろうから、そういったものに関する犯罪は大々的に報じられ、社会的問題になる。
犯行が少なくとも恥を一時的に捨てた状態で行われたことを意味するからだ。
常用化してしまうような事態なら、問題になどならないはずだからだ。
社会的問題になるからこそ、それが恥となるともいえる。
もし、その事実が他者に伝わることがないのなら、恐らく常用化してしまっていただろう。

2.物欲

これ自身も性が悪いが、それが利用されていることも性が悪い。
利用されている典型的なものとしては、広告がある。
人の欲求を駆り立てる存在である広告は、本来人間が人間として生きていくためにはまったく必要のないものばかりを買わせる点にその目的がある。
我々にしてみれば、広告されているものはどれも必要ないといえば必要のないものばかりであるはずである。
古来、日本人は自給自足で生きていくことができていた。
自らが持つ田畑で作物を作り、山で山菜を採取し、海や川で魚を捕らえるだけで十分間に合っていた。
それを考えれば、広域な宣伝を行う広告など、我々にとってはまったく見る価値がない。
それでも尚そこに広告が存在しているのは、その広告によって生きる糧を得ている者があるからである。
我々は、彼らのために不必要なものを得ているのだ。
人が物欲を捨てないからこそ、社会が回っているともいえるのだから、この世の中というものは不必要な欲で動いているということである。
仏道の"煩悩は邪念である"という考えを持つ人にすれば、大いに憂得る状況であろう。


一方で、物欲の"物"の中には金も存在している。
これが、今日数々の犯罪の原因となっていることは言うまでもないことである。

3.知識欲

物事を知りたいという欲求であり、"知る権利"とうたわれるように最近では権利と化しつつある欲である。
これは、他者に害を及ぼすというよりも、自らの身を滅ぼしかねない欲求である。
何故ならば、守秘する必要性があるものもあるからだ。
この必要性というものは、社会に要求されることもある一方で、個人に要求される場合もある。
その要求は他の欲によって生じている場合もあるが、過剰すぎる場合があることは問題である。
その過剰すぎる欲求は、しばしば"知る権利"と争うことがあるが、過剰すぎる欲求にしても他の欲求によって生じた綻びをばれないようにするための"恥"によって生じている場合が多い。
そうした喧騒は、人が欲を捨てない限り果てしなく続いていくものであろう。


ただ、この知識欲は、技術の発展に大いに貢献する場合がある。
それらの場合、得る知識とはまず過去の知識欲の蓄積である場合が多い。
そうして、その蓄積を得ることによって未だ誰もしたことのない発見や未解決の問題の進展に繋がっていく。
それが、技術革新"イノベーション"であるという点でいえば、知識欲は必ずしも悪いものとはいえないのだが、その集大成が現在の状態(環境問題・人間関係の希薄・新たな病気の出現 etc...)であることを考えれば、結果的には存在してはならない欲求であったものもあるかもしれない。

4.利欲

これは、金に対する物欲と似ている。
ただ、ここでいう利潤とは必ずしも金とは一致しない。
利潤にも色々なものがあり、それは金以外に物である場合もあるし、自らの心の安息である場合もある。
そういった意味では、"思いやり"も利欲であると言えなくもない。
真なる"思いやり"とは、まさに見返りを求めないからこそ自己犠牲に近い存在である。
しかし、好んで自己犠牲を行う人間はそう多くない。
だから"思いやり"をかけた相手がそれを喜んでくれることで、その"自己犠牲"を満足に代えることができ、人は他人を"思いやる"ことができる。
つまり、その"満足"という感情こそが利欲に繋がる。
誰も満足してくれないような状態なら、"思いやり"という行為を行う人はいなくなるに違いない。


例えば、忘れ物を届けるという行為。
これは、忘れた人がその忘れたものを再び得ることによってその人が喜んでくれるであろう、助かるであろうという予測に基づいて行っている。
であるにも拘らず、直接本人にそれを渡したときに謝礼(物ではなく行為を指す)がなければ、次からそれを行う気力が萎えてしまう。
それは、"思いやり"の空回りの結果であり、利欲が満たされなかったせいである。


例えば、清掃活動という行為。
これにおいても、利欲を追及したものである。
(ただし、自主的な活動に限定するものとし、義務として生じた場合にはその義務を果たさなければならないという別の感情によって生じている。)
清掃された姿を見て、誰かが美しくなったという状況を喜んでくれることに喜びを感じて、その行為を行う。
その"誰か"は赤の他人であるかもしれないし、同じ自治体に位置する者であるかもしれないし、同じ生活共同体に位置する者かもしれないし、はてまた、自分ですらあるかもしれない。
物がもらえることだけが見返りであるというわけではなく、他人や自己の感情を目的としているのである。
何も満たされることがないのであれば、義務以外の行為で行うものはそういないはずである。


一方で人間関係が希薄になりつつある今日、"思いやり"という言葉は風化しつつある。
いずれの日にか、この言葉が死語と化してしまうのではないかと憂うことも、杞憂ではないかもしれない。


To be continued...?