K2へ登る志の如く

しがないもの書きの、サイト更新の詳細情報を兼ねた日記

Twitter : @toresebu

ある意味で"世間から隔てられた世界"の続き。

結局、上の記事で何が言いたいのかというと、世間の事件は全て欲に基づいているということと同時に、社会は全て欲によって回っているということであって、そういった情況がどうも皮肉なことに思えて仕方がないということ。
どうしても、ああいった文章を書こうとすると文体が硬くなってしまうのだけれども、それも致し方ないのかもしれない。
一部、言い回しが変なところがあるかもしれないけれども、そこいらの目的がわからないような掲示板の投稿よりはよっぽどましだと思う。


それで、タイトルの意味なのだけれども、"欲を捨てる"ということが"俗世間からの隔離"を意味するということ。
すこしばかり"テレビのない世界"に憧れているっていう意味合いもあるのだけれど、これを絶つと"話題"についていけないっていうことが起こるから、未だに見続けているのは他人指向型の私としては不本意な状態になることを拒んでいるのかもしれない。


テレビのない世界に憧れている理由としては、テレビ自身が無駄な時間を過ごす原因となってしまっていることも挙げられるけれども、例えば下に書いたようなことが世の中にはうようよとしているから、テレビというメディアの影響を受けていることが余りにも馬鹿馬鹿しく感じてしまっているから。
同時に、新聞の投書欄は好きだけれども、専門家の意見とかは自分の中で妙に信頼が厚くなっていることが嫌だからあまり見ない。
テレビにしても新聞にしても、どれだけの情報を鵜呑みにしているかなんて誰も分かってはいないし、人によっては自分が鵜呑みにしていることに気がつかずにそれだけが世の中の全てであるかのように誤解している人さえいるというのが現状なのだから、馬鹿馬鹿しくて見ていられないと感じてくるのも無理はないでしょう?


寧ろ、世の中にあふれている"欲"の集大成がテレビや新聞という媒介に示される世の中であって、テレビや新聞はそういった状況にあることを利用して、ある程度の情報操作をしていることのほうが理由かもしれない。
この情報操作にしても、欲という欲の塊であって、これによってどれほどの人が利権を得ているのかと思うと、やはりテレビなどは馬鹿らしくて見る気がなくなってくる。


前に書いたように、テレビは全ての内容を報道しているわけではなくて、幾つかの情報を、見せないでいる。
この見せないでいる行為が情報操作であって、大抵の場合そこに非常に重要な情報がある。
すると、この非常に重要な情報を見なかった私たち視聴者は、そこに映った映像だけが全てだと鵜呑みにして、誤解をしてしまう。
映っている当事者が本当は何を言いたかったのかという肝心なことを得ずに、ただ誤解したままでその情報を得ることは私にとって単なる苦痛でしかないと思えてきた。


それなら私は、"少なくとも見えていることは真実である"テレビや新聞よりも、"真実も嘘も存在しているけれど言いたいことはしっかりと目に入る"インターネットの方が、よっぽど情報を得る手段として選ぶに値すると思う。


うちが購読している新聞は毎日なんだけれども、そこの読者投稿欄にテレビが壊れたことが書いてあった。
テレビが壊れたことによって、時間が生まれて、今までよりも作業をテキパキこなすことができ、話す機会も増えて、子どもがテレビの前から離れるようになったという内容だったのだけれども、なんだかそういった状況をうらやましく感じた今日この頃。