眼鏡を外した瞬間は、辺りの視界が一気にぼやけて認識しにくくなるわけです。
まさに目がねぇと言わんばかりの状(強制終了
コンタクトとか
ごほん。というわけでもはや必須なわけです。
コンタクトという手段は、基本物持ちのいい私からすれば、長期的観点から見て合理的でないのです。眼科検診も面倒ですし。
かけ始めたのが高校の時分、恐らく2年生の時だと思いますが、今のところ一度も(レンズさえ)変えていません。
そろそろ違うフレームを試してみたくもなりますが……、恐らく下手な事故(喧嘩とかそういう類)にでも巻き込まれない限り変えることはない気がします。
他人の眼鏡について
そんなこんなで、同じく眼鏡をかけている人に変なシンパシーを感じたりするわけです。
もっともそれ以上のものではありません。
ちなみにそのシンパシーとやらは同じ苦労を些か共有しているだろうなあというくらいのものです。眼鏡の話でちょっと盛り上がれるんじゃないかなというくらいのものです。
眼鏡はギャップ
で、少し話は変わりますけども、うちの父親は眼鏡をつけているときとつけていない時の差が激しいのです。いや全く。
というわけで(どういうわけだ)、眼鏡の真の魅力は外した時とのギャップにあると思うわけです。単につけているだけ、若しくは時東ぁみのようにつけっぱなしで外さねえという眼鏡になんて、シンパシー以上のものを感じないのです。
眼鏡は外してなんぼのもの。
伊達眼鏡?シンパシーも糞もないですよ。
二次元の眼鏡
ちょっと横道に逸れますが、漫画の眼鏡についてです。
大抵の場合漫画においては眼鏡は線です。特にキャラ付けを濃くしたいとき以外は線で描かれます。理由はやはり毎回描くのが手間だから、でしょうか。
というわけで、掛けていない時の顔なんて容易に想像できます。これに魅力を感じろという方が無理があります。ちゃんと見たいと思ったら今やスキャナ+ペイントで容易に見ることができますしね。まあ、面倒臭いのでしませんが。
また、度の弱い眼鏡は普通の顔に眼鏡の線を足しただけ。度の強い眼鏡は牛乳瓶の底で誤魔化しちゃう。これで何を感じろというのですか。所詮漫画の域を出ないのです。アニメにしてもそうですよ。
まあ、需要があることには同意しますが、自身がその"需要"ではないということです。
三次元の眼鏡
三次元はそうはいきません。ほいほい外せないのです。というわけで、外した時の顔はレアものです。外した顔が見てみたくなります。レアですよ、レア。
そこが眼鏡の醍醐味だと豪語してもいいくらい。外した時の顔を見るために眼鏡がついているのですよ(言いすぎだ)。
この眼鏡
見慣れた顔というものがありますが、果たして自分の顔の場合は眼鏡をつけている時とつけていない時、どちらの顔が見慣れているのかと。
そも、鏡の前に立たなければ自分の顔は見れないわけですから、"もっとも見慣れていない顔"ということもできます。毎朝見てるだろうと言われるかもしれませんが、それでも未だに慣れないですね。
で、眼鏡がある方とない方とどっちが見慣れているのか。
人生を振り返ってみれば掛けてない時の方が長いのですが、若い時なんて顔があっという間に変わってしまうのでそこで比較することはできません。
では最近はとなるわけですが、平日は眼鏡をかけて鏡の前に立ち、休日は掛けずに過ごしているので掛けない状態で鏡の前に立つわけです。
比率的には掛けている状態の方が多いですが……。
それでもどうでしょう、やはり掛けてない時の方がしっくり来る気がします。何故だか分かりませんが。
例外:掛けない方が標準の場合
ちょっと例外的な話。
授業中とか講義中だけ眼鏡をかける人がいますけども、そういう人の場合は掛けているときがレアなわけです。レアですよ、レア。
というわけで、普段掛けていない人には気持ち的に掛けたくなります。掛けるとどんな顔になるのよ?って。
まとめ
まあ、結局普段見ない顔が見たいというだけですね。そんなものですよ。