K2へ登る志の如く

しがないもの書きの、サイト更新の詳細情報を兼ねた日記

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純文学の魅せ方

 純文学を読んでいてまず魅せられるのは、その文章力である。一文一文を重んじて読めば、純文学がもっといいものに思えてくるに違いない。
 現状さらっと読んでいる人には是非ゆっくりと読まれることをお勧めする。
 というわけで、文章が読解しにくい純文学はまず読まないし、人物の同一性が分かりにくい洋書は滅多なことでは読まない(個人的にカタカナ名が苦手なのだ)。
 ラノベの場合はその点を無視して読むということが前提となっているからそこまで気にしてはいない。それでも上手いなと思う時はあるけれど、ラノベの場合、主となるのはストーリーとキャラクターの個性なのだろう。従って文章力そのものは"読めればいい"という次元に留まる。その代わり、流れを揺るがす"内容的な矛盾"に関しては痛いほどに敏感になる。
 横道に逸れてしまった。ともかく、純文学の文章は、一字一字、語尾の扱いにさえも重みがあると思って読むと小説として深みを増す、ということだ。


 一方で、純文学のストーリーというのは、ラノベとか児童文学にみられるような正義と悪の対峙というものがない(ただしサスペンス・推理・刑事ものを除く)。主人公やそれを取り巻く人物一人一人の生活や人生の根幹に関わる部分を"そこはかとなく"映し出すことに美があるのではないかと思う。そういった重厚さが純文学を読まない層を増して遠ざけているのだろうが(場合によってはそれが存在していることさえ理解されないかもしれない)、個人的にはあの重みが歳を増すごとに重要だと思えるようになってきた気がする。そも、純文学という分野に"分かりやすさ"を求めることそのものが間違いなのかもしれないとも思う。読んで考えてこそなんぼのものなのだ、と。
 ただ、ラノベと純文学に共通していえることは、登場する人物は往々にして次のステップへと踏み出しているということである。つまり、成長記でもある。その階段が高いのか低いのか、広いのか狭いのかを問わず、何らかの変化を得たということは普遍的であるだろう。しかし、純文学の場合はラノベほど変化に富まないことが"純文学らしさ"なのだと思う。