K2へ登る志の如く

しがないもの書きの、サイト更新の詳細情報を兼ねた日記

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持続性

 継続は力なり。さりとて、ないものは生まれて来るはずがない。
 果たしてこうやって書き続けることで何かが得られたりするのだろうか。
 失ったものばかりのような気もする。


 単に自分が書いているものを誰かに認めて貰いたいだけなのかもしれないけどさ。
 ただ一人、たった一人でいいからそういう人がいると心強いんだと思うよ。
 でも今はそんな人なんて何処にもいないんだよ。
 いや、いなくなってしまったんだよ。
 いて、離したくないからこそ強く求めてしまっていたのだろうけど。


 絵師さんにしても確かに小説に対する挿絵を描いてくれる人として素質を買いたいという気持ちもあったけれど、絵を描いてくれるということは少なくとも小説を読んでくれているという安心感があった。
 いや違う、オリジナルで最初に書き始めた小説こそがまさに絵に、漫画になっているはずで、それを暗に求めているから──まだ最初の恋に固執したりしているからこんな状況なのだろうか。
 本当にそうなのだろうか?
 思い出としてはある。それは果たして想い出なのだろうか。
 その違いが分からず混濁してしまっているのかもしれない。


 想い出の場所がある。そこには実家からただ五分もあれば着く。
 だから戻ってくると思い出してしまうのかもしれない。
 果たして、同窓会という場で彼女とちゃんと向き合うことができるのだろうかとも思うが、結論はいつまで待っても彼女からは何も得られないだろうということだ。
 最良の選択をその時々でしてきたつもりだったけれど、いずれにしても芳しくないどころか寧ろ最悪の結末として帰結しているのかもしれない。
 同じことが、何度も何度も。
 それは経験から何かを得て成長していないということなのだろうか。


 論点がずれている。
 小説を書き続けて何かが得られるのか、だ。
 思い返せば、彼女と連絡を取らなくなったときにも同じようなことを思っていた気がする。
 小説はそもそも中学校の時の担任の先生との日誌のようなやり取りでネタに困っていた時に、物語のようなものを書けば困ることもないのではないかと思って書き始めたものだった。
 でもそのあとでオリジナルの小説を書き始めた経緯が思い出せない。
 何故、一人で小説を書き始めるようになったのか。それが未だ持って思い出せない。
 単に、物語を作るということの楽しさに目覚めたのかもしれない。それとも、先生とのやり取りで書き足りないアイディアを別の創作物として形にしたかったのかもしれない。それとも、周りでぽつぽつできていくカップルに理想の投影として創作を始めたのかもしれない。
 そこが不確かだから、何故自分が小説を書き続けているのか、小説を書き続けることに何の意味があるのか、分からなくなってきているのか……?


 実際に書き続けていて得られたことは、文章力ではないかと思っている。とはいえ、普段から本は読んでいるからそれこそが理由かもしれない。それに歳を老いるに従って自然と身についていたかもしれない。一概に、小説から得られたものであるとは決定づけられない。
 じゃあ、小説から、小説を書いていることから確かに得られたと言えることはなんだろうか。


 人生に占める割合として、四割くらい、つまり八年は小説を創作してる。
 長い人から見ればそれも短いのだろうけど、軽微なものでも何かあってもいい気がする。
 そもそも見返りを求めるのが間違いだと言うかもしれないけれど、継続しているからには少なからずとも力になっていると信じたいから、何か得られたものがないかと思う。
 今得られていなくとも、今後続けていくことで何か得られるのだとすれば、それは続けていくことの力になるだろう。


 ……小説を書くモチベーションが足りないのかな。続けていけるだけの後押しとか、続けていけるだけの目標とか。
 例えば小説家になりたいと思っているなら、それを目指していくらでも文章が書けるはずだろう。例えば一人でも小説を好きだと言ってくれる人がいるなら、その人の肯定だけでいくらでも文章を書くことができるだろう。
 今はそういうことはない。
 小説家になるということは、選択肢の一つとして瞬時だけ浮かんだという記憶があるが、それは夢とかじゃなくてそういう道もあるかもしれないなという選択肢であって、目指していたなんてことはない。将来の生計を立てる選択肢の一つでしかなかったのだ。
 ただ、趣味を仕事にしたくないという思いがあった。好きで書き続けているものに、デッドラインが設けられても書き続けられるかといえば、そんなことはないと否定した。それを生きる糧として書き続けられるかといえば、それもそんなことはない。
 読んで、一人でも好きだと言ってくれる人がいるのかって。最初は、何気なく書き始めたものだったけれど、その小説を読んでくれて漫画にしてくれるというだけで一定のモチベーションが保てた。そういう意味では、今もこうして僕が小説を書き続けているということに彼女が寄与した面は大きい。感謝はしている。
 でも、それは今思うことだ。実際に彼女と交流があった時に果たして彼女に感謝していたのかといえばそうではないのかもしれない。一種の消化に似たものだったのかもしれない。
 はて、思い起こせば、どうして高校の時分はあんなにも小説を書くことができたのだろうか。彼女との交遊も途絶え文芸部に入ることもなしに何を持って小説を書き続けるという状態を続けることができたのだろう。そのときモチベーションを保っていたものは?ネット上はメッセの最盛期だったと思う。同じように小説を書いている人に出会い、ある程度の友好を持っていたけれど、それがモチベーションに寄与したとはとても思えない。何が突き動かしていたのだろう。


 今年、短編を二、三書くことに寄与していたのは、恐らくサークルと同盟の存在だと思う。その点は感謝してる。でも触るたびに懐古するような状態では、素直にそう思えなくなってしまう。まだ何か思い残すことがあるのかもしれないけれど、かといって何もできはしないのにな。
 サークルはある。ただ、手を伸ばして得たかったものと何か違う。楽しいのは楽しい。そして小説を書くきっかけにもなってる。でも、文系論文の校正をしているんじゃない。そんなことを得たかったわけじゃない。でも、各人書くジャンルや書いている期間に差があるから、それを得ようとするのは難しいのかもしれないし、欲張りなのかもしれない。同時に、自分が自分自身の求めているように相手の小説に対して寄与したいと思っても、それがなかなか難しいところがある。だからあまり人のことは言えない。
 はて、これからは何を糧に小説を書き続けることができるのだろうか、と。