K2へ登る志の如く

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必修科目未履修問題について


必修科目未履修問題で世界史などを履修しないことに関して、"過去の過ちを繰り返さないために学んでいる"と、その教育の目的を明確化させる人がいるけれども、どうもこの理由には納得がいかない。


そもそも、高校教育は義務化されていない。
ということは、高校に行っていない人がいるということである。
つまり、彼らは未履修・履修という話ではない。
そうなると、彼らには過去の過ちを云々という話はできない。
その時点で必修化などという話からは遠ざかるからだ。
つまり、選択によっては"過去の過ちを繰り返さないため"の教育は受けなくてもすむということになる。
必要な教育であるというのならば、彼らはどうなるのであろうか。
確かに、今では大半の人が高校へと進学しているという事実はあるが、"高校で過去の過ちを学ぶ"といった主張は彼らの存在を無視してはいないだろうか。


さらに、中学校の教育が高校の教育の前にある。
中学校の教育においても、もちろん過去の事実に対する教育がある。
これも、あの第二次世界大戦(W.W.II)に重心が置かれる。
理由としての"過去の過ち"は恐らくWWIIを指すのであろうが、そうでなくとも同様にこれらの話は通じるであろう。
そして、小学校にも過去の事実に対する教育はある。
つまり、一般教養としての小学校中学校でもこの教育はあり、高校でそれをさらに深く掘り下げたものであるということだ。
小学校中学校の時分というものは、刺激に慣れていない、所謂清純な状況であり、これらの教育は高校生以上に響く。


高校での教育というものは、おおよそ入試のための勉強・定期テストのための勉強となりがちである。
過ちを繰り返さないための教育などという言葉が果たしてこのような状況で通じるだろうか。
入試や定期テストに重点が置かれる理由としては、自らの進路と、数値としての個々人の評価、並びに欠点という個人に響く要因があるからであると思う。
将来のための勉強という実感はまるでない。
そんな状況で、"将来のための教養"などという言葉が通用するのだろうか。


それに、大学生はこの高校での教育を覚えているのだろうか。
高校の教育は必修化もあって幅が広い。
しかし大学の教育は専門的になり、その範囲が狭くなる。
個人が関心のある分野を学び、学ぶものに対して取捨選択を行うことになる。
覚えたものというものは使わなければ、触れなければ、忘れていくので、大学の教育のうちで利用されなくなることで次第に忘れていく。
これは人間としての性で、人は機械ではないから忘れていくことは仕方がない。
そんな忘れゆくものに対して、将来に活かそうというのも無理があるのではないだろうか。


そして、最後にもう1つ。
ここ、日本にいることは、あの戦争の重荷を背負っているということだ。
いやでも、先の戦争に関することは報じられ、その悲惨さも物語れる。
こんな日本にいて、過去の過ちを繰り返さないための教育がないというのだろうか。
終戦記念日に日本中そういった報道を行うマスメディアに囲まれることは、日本人の心に響いているであろう。


"過去の過ち"があの第二次世界大戦だけの話ではないということを言う人がいるかもしれない。
しかし、最悪の戦争とはあのWWIIであり、それがもっとも身近にあるものだ。
それ以前の戦争が悲惨でなかったかと言われれば、そんなことはあるはずがないが、戦争を語るにはWWIIだけで十分その悲惨さを伝えることができると思う。
将来、万一、世界大戦のようなものが存在するとしたら、そのときに核が使われてしまうことは否定できず、可能性として相当高い。
それを止め、悲惨さを伝えられるのは我々であり、WWIIの経験である。


それならば、世界史を必修化することよりも、WWIIというものの悲惨さを学ぶような場があったほうがよほどいいのではないだろうか。
そのほうが、定期テストや入試に縛られない、本来の教育というものができると思う。
そして、あの過ちを繰り返さないためにも、より活かせると思うのだ。