K2へ登る志の如く

しがないもの書きの、サイト更新の詳細情報を兼ねた日記

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情報通信網と認識について

新年早々テンションの下がる記事を読んだもので、どうしたものかと思っていたけれども、その後の毎日新聞のあのコーナーの連載はぼちぼちです。
連載だということでこの後にどんな記事がくるのかというのもあったのですが。


携帯やPCを5日間絶つという企画は、在りがちではあるけれども、人によってそれぞれその価値観が異なることを明確に示した上で、暗に本当に必要な人がいることと不必要な人がそれに踊らされていることの提示をしているかのような記事でした。


それでもどうも批判しているように感じてしまうのは、何処かネットに染まってしまったかのように思えて仕方がない。
かといって、新聞記事から伝わる文章の内容は絶対ではないことを認識していなければならないことは当然であろうし、同時にインターネットの中に貼られている記事内容も同様に絶対ではないことを知り、自分自身で判断していくことが必要であるのは言わずもがなだろう。


ただ、その判断の基準となるものに何があるかを考えてみると、そういった意味では自分自身で何一つ確かめようがないような気もしてくる。
正直なところ、外国へ行ったこともないし、その存在も新聞やネット、テレビ、他人からの感想や誇りなどで認識するだけで、自分の目と身体で確かめたことなど何一つない。
ただ、世界があることは事実なのであろうけれども、その世界というものが自分の中では遠い何処かでしかなく、知識というものでしかない。
実体験を孕んでいない世界は、"認識"されていないようにも感じて、その存在を疑うことも自然ではないかと思えてくる。


そういった話の極論は、恐らく"他人"の存在を認めることにあるのではないかと思う。
自分以外の"他人"の存在とその人格の存在を認めるには、根拠は何もない気がしてくる。
かのマトリックスのように、"誰か"によって見せられている世界を感じているのではないかと思えても、それが確かか不確かかは、誰にも判断できないのではないだろうか。


世界の認識に関してもそれと同様のことが言える。
同じように、ネットの向こう側にいる"誰か"も同様の存在に思えてくる。
いくら画面を通して話していても、電話を通して話していても、テレビ電話を通して話していても、目の前にいないことは確かで、真の意味で認識しているとは断言できないような気がしてくる。
恐らく、あの記事が語るのもそういったことではないのだろうか。